TOP > BLOG TOP > スタッフ別

STAFF BLOGスタッフのブログ

2018年 オランダ→パリ 「言葉を超えた優しさと理想の家族」

オランダを離れバスでかなり長いこと走った。着いたのはフランス パリ近郊のバス停だった。

毎回のことだが、初めての国になれるまで二日は要する。右も左もわからないとはこういうことだ。

WIFIを探し友人に連絡を取る。ついにジュリーに会える。

ジュリーとはタイで出会い、一緒にいた時間は短いが、とても心優しい子で、その優しさのルーツを知りたくなった。タイでの別れ際、パリに会いに行くから家族に会わせてほしいと伝えたら、部屋を準備して家族と待っているから何日でも泊まっていいよと言ってくれた。

そして、再開の場所をパリに移し、その日家に行くことになった。

 

しかしここからが大変だった。WIFIスポットにずっといるわけにもいかないので、送ってもらった住所を元にオフライン地図のみを頼りに全く知らない土地を歩くのはかなり難しい。

最寄だと思ってた駅はかなり遠く、連絡手段もない。地図を見て2時間ほどあるってようやっと家の前についても、連絡手段がないのでどうしていいかわからない。

怪しいアジア人がウロウロしていると通報されるのではないかとビクビクしていると。

車が停まりすごい笑顔のおじさんが降りてきた。「ジュリーの友達かい?待っていたよ!!ジュリーは帰ってくるまで少し時間がかかるから中で待っててくれ」とずっと素敵な笑顔で迎え入れてくれた。

 

その後ジュリーが到着した。久しぶりの再会に笑みを抑えられなかった。

 

家族のみんなも私を当たり前のように迎え入れてくれ、家の鍵まで預けてくれた。会った瞬間わかったが、彼女に優しさはこの家族から来ていた。家族同士が話すときも、全く理解できないと不安になるからと、フランスの自宅なのに英語だけで会話をしてくれた。そんなこころ遣いは初めてだった。

この家族を見て、自分もこんな素敵な家族を造りたいと、こころから思った。

3日目には、間も無く奥さんになる相方が、初めての海外で、飛行機を乗り継ぎパリにきた。シャルルドゴール空港で、日本を離れて半年ぶりの再会を果たす。

そして、ジュリーの家族は相方もすんなりと受け入れてくれた。

結局6日ほど泊めてもらい。かなり濃い毎日を過ごさせてくれた。

パリでは更にもう一人再会することのできた人が居た。

7年前、私が東京に住んでいたときだった。休みの日に奥多摩川をトレッキングし、その帰り道に彼と出会った。すぐに泊まれるキャンプ場を探していたので、一緒に探した。そしてその頃は必死に翻訳機能に頼っていたが、ウチに数日泊まったらいいんじゃないかと提案したところ、喜んで来てくれ。お互い同い年で、アニメが好きだったこともあり。すぐに打ち解けた。

彼にも連絡したところすぐ駆けつけてくれた。こうやって再会するたびに、人の魅力と暖かさをおしえてくれる。

数時間だったが一緒にパリを歩き気取ってレストランには入らず、スーパーでサラダを買って公園で食べた。

そんな時間が旅らしくて私は好きだった。

 

フランスは私にとって再会の国になる。パリを出た後もこの国フランスでは出会いと再会に恵まれた。

 

 

 

2020.09.25|スタイリスト

2018年 ベルギー→オランダ「優しさが人を幸せにする」

ベルギーを後にオランダのアムステルダムに向かった。

そこに向かった目的は日本では知り得ないディープな夜を体感するため。

日本では信じられないかもしれないが、オランダでは数少ない大麻が合法の国として知られている。

あらゆる場所で、ハッピーケーキという大麻のケーキやハッピーピザが売られていて、生活に大いに馴染んでいた。

夜は写真のようなコーヒーショップと言われる場所でみんな様々な種類の中から好きに注文してリラックスしている。

怖い雰囲気に見えるが、騒ぐ人もおらず、カフェと変わらない雰囲気である。

オランダでは物価も高くまともな食事をした記憶がほぼない。

スーパーで買った大好物のルッコラとパンとハムをひたすらサンドして食べ続けていた。

広い公園の芝生でみんな思いに過ごしている。そこに横になり、お酒を飲みルッコラサンドを食べる毎日を過ごしていた。

しかし、中心地だからか、宿が初めは1500円だったが、週末には4000円になる。なので、野宿してでも週末は節約しようとしていた。

オランダに行こうと思っていた理由も、ニュージーランドで仲良くなった、愛嬌の良さ地球代表のJosienの故郷で話にきいていたからだった。

しかし彼女はまだオーストラリアにいて会うことができなかった。しかし彼女に相談したところ、「あなたに野宿なんてさせられない」とお姉さんに連絡を入れてくれ、お姉さんが用事があるなか、泊めてくれる友人を紹介してくれた。

 

場所はユトレヒト。ミッフィーの故郷の町でもある。

電車で一時間ちょっと。

それくらいしか情報はなかった。しかし着いてみると落ち着きがありヨーロッパの田舎はとても居心地が良い。

教えてもらった住所に向かうとすごい満面の笑みでお姉さんが迎え入れてくれた。

とても綺麗で愛嬌のあるお姉さんは知らないアジア人をオープンに迎え入れてくれた。

夜は友達の結婚前夜のパーティーがあるから泊めてあげれなくてゴメンなさい。と友人を紹介してくれたのだった。

少し妹のJosienの話をした。「あの子は笑顔も性格もとても素敵で大好きなの。あの子がいまオランダにいなくてとても寂しい」と言っていた。もうそれだけでとても暖かい家庭で育ったことが想像できた。

 

その後も自転車で散歩するといいよ。と自転車を貸してくれ、いつでも戻ってこれるように鍵まで預けてくれた。

日本ではありえないと思う方がおおいだろうが、海外では家の鍵を預けられることが多かった。このオープンなところが僕は大好きだった。

その後お姉さんに感謝を伝え、友人宅へ向かった。

家に着くと彼らも満面の笑みで、ハグで迎え入れてくれた。

エアーベッドも準備してくれており、「疲れていたらすぐ寝てもいいし、寝れなければ、お酒を飲みながら旅の話を聞かせてくれないか?」と言ってくれ、みんな眠さがピークになるまで飲みながら話をした。

 

 

次の日の朝は素敵な家を案内してくれ、ワインといっしょに朝食を食べた。

その一つ一つが愛に溢れていた。とんでもない偶然の末出会った二人だったが、どこかこの二人やお姉さんに出会うためにここに来たのではないかと感じた。

 

すごく優しい気持ちにさせてくれた町ユトレヒト。次は自分の家族と来れたらいいな。そんなことを考えながら、次の目的地、タイで出会ったジュリーの住むパリに向かった。

2020.08.28|スタイリスト

2018年 ドイツ→ベルギー「受け入れがたい違い」

ミュンヘンを離れ、留学しているお客さんの家に向かった。

留学する前にドイツに行くから泊めてもらうかわりに留学先の友達含めみんなの髪切るという約束をしていた。

実際にそれを果たすというのはとても不思議な感覚だった。

丘の上のワイナリーを散歩したり街をプラプラしただけで心が満たされる。

写真こそないがトリーアという少し静かな街はとても居心地がよかった。

次の日にはベルギー人の友達に会う予定だったためバスを予約していた。

駅は近かったので急ぐことも無いが予定よりも早くバス停に向かった。ところがそこにははりがみが。内容はバス停が数日間場所を変更しているという内容だった。

 

その場所まではバスなど使っても30分以上かかる場所だった。

人生ではじめたこころから「ジーザス」という言葉が出た。

結局あがいてみたがバスには乗れなかった。

だが何故か気持ちは落ち着いていた。ゆっくりスーパーでワインとおつまみを選び、長距離列車に乗り込んだ。

列車から夕焼けを眺めながらのむワインは最高だった。こころの中でバスに乗れていたらこの景色は見れていなかったと。ポジティブに変換していた。

間で小国ルクセンブルクで乗り換えなどは、列車に乗っていた人に聞いたりしてなんとか夜遅い時間にたどり着くことができた。夜中のブリュッセルの人の目は鋭く感じた。

次の日会う予定だった友人とはニュージーランドとベトナムで二回も会っていた友人で彼の故郷で会うのがとても楽しみだった。

合流するまで街を歩く、街なも日本とは共通点が一つもないくらいに圧巻だった。

 

街で学校の先生と街のこどもたちに声をかけられ、少し話を聞かれた。

子供達は興味津々で私を見ていた。

その後無料フェスがあるから行ってみるといいよと教えて貰ったので、夕方からはのんびりフェスをたのしんだ。そしてそこにはなんと自分も知っているマーマルハンズというアーティストが来ていた。

日中とはまるっきり客層が入れ替わり若い人が集まり、そして音楽が始まると同時に全体からマリファナの煙が立ち込める。

ステージ用のスモックかのように日本では嗅ぐことのない匂いが立ち込め、みんなリラックスしながら音楽に浸る、その景色が妙に心を動かされる。

ベルギーではイリーガルではあるが、街の広場やいろんなところで吸っていてもはや国単位の暗黙の了解であった。

その後友達と合流した。

友達のいえでホームパーティーをしているから一緒に行こうと誘ってくれた。

じつはパーティーという名がつくものがつくずく苦手な私はこの誘いの時点でいい予感はしていなかった。

案の定夜早くから朝まで飲んで食べて吸ってガンガン音楽流すホームパーティーを過ごすことになるが、

大きな音が苦手、苦手なビートの音楽、テンション上がって踊り回ってる人たち、全員ベルギー語

何もわからない不快な環境に放置され。寝たいが音楽がうるさく寝れない。

苦手を知ることは好きを知ることだと自分に言い聞かせ、9時間乗り切った私はいろいろなことを思いつつ、足早にオランダに向かった。

文化の違いもあるだろう、人それぞれ楽しいも違う。ちがうことは悪いことではない、自分にとっての楽しいが変わることもあれば、合っていた人と合わなくなることもある。

人はみんなちがうてそれでいいのだと思う。しかし私がパーティーを好きになる日は来ない気がする。

2020.08.23|スタイリスト

2018年 ヨーロッパ編 ドイツ 「ミュンヘンとアーティスト」

チェコからバスに乗り込みミュンへンで友人の家に向かった。ネットがないので到着場所も待ち合わせも何もかも大変だったが、もともとこちらの夫婦も旅をしていて出会ったご夫婦だったので、そういったトラブルには嫌な顔一つせず迎え入れてくれた。

 

もともと写真のNIROさんという女性には、日本で出会った。蕎麦屋imosenの代表が出会いボサノバ歌手であるNIROさんのライブを主催したいとのことで協力を求めてくれた。そこで、場所の確保や宣伝を担当させてもらい。直接NIROさんとも仲良くなることができた。

そこで海外を周ることを話したら、ドイツのウチにおいでよと声をかけてくれた。旅をしていた人たちのは常にオープンだ。僕の中でも迷わず目的地としてピンが打たれた。

 

久しぶりの再会。とても素敵な人の家族は間違いなく素敵だ。小さな二人もとても慣れ親しんでくれとても素敵な時間だった。

街を散策したり、ドイツの美味しいものもたくさん食べた。具合悪くなるくらいビールも飲んだ。

車でしか行けないようなところにも連れて行ってくれ、ミュンヘンを満喫できた。

あの日の天気、気温、湿度全てが最高だった気がする。こうやって文章を書いていると全てが思い出される。

 

 

NIROさんの家族に出会えたことはとても幸運だった。多くの家族に出会い家族のあり方を模索して周っていた私からするととても理想的な家族だった。

旦那さんもとても愛が大きく、仕事に対してもまじめだが、それ以上に何より家族を優先して家族を心から大切にしているのが伝わった。

1ヶ月ほど休みを取り家族と旅行したり家族や自分の人生があっての仕事だ。仕事をするために生まれたのではない。そう教えてもらった。

NIROさん自身も結婚して子供も旦那さんもとても愛していて、さらに自分のやりいたこと、歌手としての活動もしっかり楽しんでいた。家族もそれを喜び幸せにあふれていた。

自分もこんな家族をつくりたい。

そして子供達も、まだ7歳のお姉ちゃん、5歳の男の子、二人とも可愛すぎる。小さいのに、ドイツ語はもちろん、日本語も英語も少し話せる。本当に思う。自分は今まで何してきたのだろうと。

社交性、行動性、自己主張がしっかりできていて小さな尊敬できる先輩だ。

こうやっていろんな人に出会うと、性格は国が作り出しているところも少なからずはあるのだと感じた。

数日お世話になってNIROさん家族は、フランスにサーフィン旅行に行くということで、ジャズドラマーの友人を紹介してくれた。

福盛 進也さん

快く家に招いたくれた。お酒が大好きなので毎日一緒に飲んだ。一緒にドラえもんを見ながら卵焼きを食べたりしていて兄のような人だった。

良く良く調べたら、彼はかなり有名なドラマーさんだった。彼の音楽は今まで聴いたドラムと違い、自由で、リズムを鳴らすドラムでメロディーを作っているようだった、(詳しくないけど)

そこをひけらかすわけでもなく一緒にいてくれた彼は自分の中では大切な友人だ。

寂しい気持ちを抑え次はドイツの西へ。

カットモデルから来てくれていたお客さんが留学していたので、髪を切りに向かった。

 

2020.08.19|スタイリスト

2018年 ヨーロッパ編 チェコ 「全てが芸術」

ベルリンからたどり着いたチェコ プラハ

全てが想像以上。絵本の中の世界がそこにはあった。

歩いていて目を引かないところがない。まさしくみんなが想像するようなヨーロッパだった。

荷物を置くなりすぐ広場に出た。そこにはバスキングを行う人、日向ぼっこしている人、写真を撮る人と好き好きに時間を過ごしていた。

日本からでは行きずらくそれほどポピュラーではないかもしれないが。個人的にはかなり印象的な大好きな場所だ。

 

これといって何もしなかった。

レストランに入ることもなかったので食も分からない。お土産も買っていないので物価もあまりわからない。なので情報があまりないのだが、とにかく公園が気持ち良く、毎日、散歩しては芝に寝転び、散歩しては寝転びを繰り返していた。

それだけで幸せだった。

他の街のように誰かと出会い、一緒に回るわけでもなく、目的も何もなかったこの街は書くことはとても少ないがまた行きたいと思える場所になった。

この気持ちはきっと行った人にはわかるはず。

 

 

 

この街で数日過ごし、次にもう一度ドイツにはいる。場所はミュンヘン。

ここで数年前にイベントを手伝った日本人ボサノバ歌手に再会し素敵な家族と素敵な時間を過ごしたり、出会いを楽しんだ。

2020.07.15|スタイリスト

2018年 ヨーロッパ編 第1話 ベルリン「時間にゆとり、すなわち自由」

ドイツのベルリンに降り立った。

ついにヨーロッパに着いた。まずは空港のwi-fiに繋ぎ、宿泊先を探す。時間はすで夜遅かったため、苦労したがなんとか泊まれそうなところを見つけ、バスで向かうが、バスが分からない、とりあえずオフラインの地図を片手に近くに行きそうなバスに乗りこむ。バスから見える風景、町並みが気持ちを高めた。

近くでもないが5キロまでなら歩ける。

30キロ近い荷物を背負い歩きようやっとたどり着いた。

その日は疲れ果て、何も食べることなく寝ることにした。その日は受付の青年がとても親切だったことしか覚えてない。

次の日は、近くのスーパーで食べ物を買いに行ったが、やはり物価が高い。前にいたネパールと比べてしまう。

なので、0,60ユーロほどの安いパンに安いハムを挟んで空腹を満たした。もちろんビールと。

朝からビールを飲みながら街を練り歩く。

芝生を見つければ横になる。そんな感じでダラダラ過ごしていた。

街を適当に練り歩くだけでドイツのセンスが刺激をくれた。誰でも知っているベルリンの壁は今やアートスポットになっており、その感性をどうも日本と比べてしまう。柔軟さはやはり日本は勝てないと思ってしまった。

お店に入ることもなく練り歩き疲れ果て座り込み、また歩き出す。時間はある。自由とは素晴らしい。

宿に帰るとどうもおかしい。外が全然暗くならない。21:00ころ、シャワーを浴び、布団にはいるが外はまだ夕焼け程度。寝れない。

しっかり暗くなったのは23:00頃だった。ヨーロッパのサマータイム。1日がかなり長くなる。日本と距離があるとかなり違いを感じる時間感覚。

この一度目のベルリンでは、特に目的も、会う人もいなかったため、次の日、バスでヨーロッパの歴史残るチェコに向かった。

どこに向かうも、タイミングも自由。

そのチェコは想像以上に魅力的で、大好きな街になった。

 

2020.07.12|スタイリスト

東南アジア編 最終話 ネパール 「大自然のエベレストとそこに住む人たちの世界」

 

カンボジアから一度タイに戻り、高校生の時に自動車学校で出会いそれから仲良くなった友人がタイで仕事をしていたので、数日間泊めてもらっていた。少し観光らしい観光をした。

その後東南アジアで最後の地となるネパールに向かった。

ネパールは簡単ではあるがビザが必要になる。実際は空港に着いたら書類を書けばビザは発行される。しかし、タイからのインチケットのみでは飛行機に乗せられないと搭乗拒否にあってしまった。搭乗口が閉まる10分前にそれがわかり、慌てて、予定を考え15日後にドイツに行くチケットをとっさに取った。

今思うと、あの時の出来事がなければ出会っていなかった人ばかりなので、きっとそういう流れだったのだと思う。

無事ネパールに着きエベレストを始めとする山々に想いを馳せていた。

ネパールでの予定も変わってしまいタイトな旅になってしまったため、飛行機のチケットを手配し到着した次の日の3:00に出発することになった。

この時のエベレストは雨季。山の斜面にあり、かなり狭い。世界一危険な滑走路と言われる場所に降りなければいけないため少し曇っていると飛行機は飛ばない。

ひどい時で一ヶ月で一度も飛ばない時もあるそうだ。

自分が乗る飛行機の前に飛んだのは一週間前に一機、15人程度だった。

私はやはり運がいい。一発目で私の乗る飛行機だけが離陸できた。

その後は12日間飛行機は飛ばなかった。

そうしてなんとかエベレストベースキャンプトレッキングコースのスタートに着けた。

ここから長い人で15日間、早い人で12日間の山行がはじまる。

出発地点の段階でかなり空気が薄いため、小走りで酸欠になるため、まず体を慣らす。

散策をし、この小さな町に住む人の生活をみた。

物資は、たまにくる飛行機に積まれるため、市場のようなものができ皆が買い物をする。

 

雨季のため人も少なく快適に登山ができた。

ルートにはところどころに宿があり、一日5時間ほど登っては宿に泊まり食事をした。あまりペースを上げると高山病でヘリで強制下山されてしまうため、早く登れる人でも、たまに同じところに二泊し順応しなければいけない時もある。

1週間シャワーも浴びれず登りつずけ、時には川の水で身体を流した。

ネットもないためノートを取り出し心の内を可視化したり、すれ違うポーターの人たちの生活を想像したり、ときには、岩の上で一時間ほど瞑想したりしていた。

登り始め5日目くらいに、広場で少年と出会った。

一人ノートを開き勉強をしていたので、声をかけてみた。彼は10歳。ずっとエベレストに住み、ここでシェルパとして生きていくとのこと。母国語に加え、英語も自分で学び、日本語を教えてとお願いしてきたので、簡単な挨拶などを教えた。

その向上心、好奇心、人懐っこさ、真剣な眼差しは尊敬に値した。

 

その後さらに標高を上げ4000メートルあたりから、眠気、軽い頭痛、倦怠感、腹痛が出てきた。

景色は圧巻で、自分がちっぽけに感じいろんなことを考える。

ポーターやシェルパの人を見ては、この人たちはみんな数日かけて山を登りガイドなどを生業にしているが、家族に会えるのは月に5日ほどの人が多い。ガイドならまだいいが。家を建てる石をただ運ぶ人もいる。たった三つの石で60キロ以上あるものをただ黙々数日かけてと運ぶ。

エベレストの頂上を目指す人のシェルパなどは命を落とすことも多いが。彼らにはそれが当たり前なんだそう。

我々は情報や選択肢が多すぎる。それをとても感じた。彼らは選択肢が限られている。悩まないことはないだろうが、選択はシンプルな気がする。

環境が違えば人の生き方は大きく変わる。自分に子供が出来たとき、その子がよりいい選択ができるような環境にしてあげたい。

レールは敷かなくても、せめてフィールドは、荒野ではなく草原にしてあげることくらいはできるのではないだろか。

そんなことを考えながらひたすら歩いた。

雨季にしては晴れてくれ、飛行機も飛ばなかった分人が少なかった。

5500メートル地点。ベースキャンプについた。

ここからは選ばれた人しか登れない命をかけた領域だ。ここから登り始め今だに遺体も降ろされてない人もいる。自分はその場から山頂に足を向けることも許されない。

 

それが世界最高峰だ。

 

この場所は、山がただ綺麗とか記念にとかそういう場所ではなかった。

自分を整理してくれる。多くを考える時間をあたえてくれる。でも無心にしてくれるような神聖さがそこにはあった。

そこに背を向け、帰りは駆け足で8日かけたその道を3日で戻った。

登るのは大変だが下るのは一瞬だ。そう言ったなんでもないことが山は人生の教科書になる。

最初の町に戻ると悪いニュースが。12日間、飛行機が飛んでないとのこと。皆が立ち往生していた。

自分の予定していた日には飛行機が飛ばず。次の日を待った。私は2日後にベルリン行きのチケットをすでに取っていたため。かなり焦った。

同じような境遇の人は、人数を集め、高いお金を払ってヘリをチャーターしていた。

自分も誘われたが断った。

翌日。その日も天気は雨。焦りで苛立ちをおぼえる。ヘリを呼ぶにも人が集められなければ30万ほどかかる。

しかし、もう当分晴れる望みはないと言われたので、現地の人と相談をしていたそのとき。

少しだけ雲がはけ、太陽が差し込んだ。そしてその人のケータイに電話が来て彼が「you can go back.」

と笑顔で伝えてくれた。

15分後に離陸するからすぐ準備してと。ラピュタのワンシーンのごとく1分で支度し空港に走った。順応し息はもう切れない。

そして離陸する時、現地の人たちが手を振って見送ってくれ、離陸した時僕の中でエベレストベースキャンプ登山の幕を閉じた。

 

余談だが、僕が乗った飛行機が離陸したあと、またすぐに雲がかかり数日飛行機が飛ばなかったとのこと。

改めて自分の持つ運に感謝をしネパールをあとにした。

 

 

 

*ここからは重い話になるので、あまりお勧めしません。

実はこの下山の間に不幸があった。

たまたま下山をしていたら日本人にあった。話していたら、その人のガイドさんが慌ただしく電話で話をしていて、我々が状況判断できないまま、現地の言葉しか話せない青年にガイドがかわった。

 

あとからわかったことだが、その時そのガイドさんの娘さんが、自ら命を絶ったとのことだった。

 

彼はガイドの仕事を放棄できないと、はじめは笑顔でガイドを続けようとしていた。しかし説得され、先に降りていった。

その時どんな気持ちで下山していたのかは想像もできない。休憩することもなかっただろう。

 

他のガイドから詳細を聞いたところ、理由は失恋だったそうだ。

まだ十代のなのになんで。。。

彼女にとってその恋愛がすべてだったのだろう。いくら考えても自分には寄りそうことすらできなかった。

人にはそれぞれ価値観があり、同じものはない。その子と同じ環境下で生活していたら、自分も近い価値観になっていただろう。しかし、その時は頭が追いつかなかった。

各々大切にしているもの、強さは違う。それを他人が否定してはいけない。。人には人の世界がある。などと答えのない考えで頭をめぐらせた。

 

その後そのガイドはお葬式が終わったあと、日本人の彼に申し訳なさそうに頭を下げていた。我々はその姿をみて泣きそうになった。

 

そしてかれが通ったあとにはお線香の香りがしていた。

 

 

このブログに書くか迷いましたが、少しでもこれを読んで考えてもらえたらなとおもいました。

家族と過ごす時間、後悔の念、心と心、愛。

理解できずとも考える機会になればと。

すでに2年過ぎてしまいましたが改めてご冥福を。

2020.07.10|スタイリスト

Do it now.Don’t wait!(アカイザワ) 

今回は海外の軌跡はおやすみ。

 

この数ヶ月みなさんはどのようにすごしただろうか。

辛かった人、気が休まらなかった人もいれば、働き方を見直せたり、家族との時間に幸せ感じれた人もいたはず。

どちらにせよ私たちは進む以外に選択肢はないのだろう。

 

私には持っているものがある。それは、「力になる言葉」だ。

「Do it now,Don’t wait!」

これもその一つ。

これは友人が、私が海外に出発する時にくれた言葉だ。シンプルだが刺さるこの言葉は今でも大切に信念として持っている。

もちろん待つことが必要なこともあるが、多くのことは自ら行動しなければ進展はしない。

そして、帰国して一年、この言葉がより強さを持ち始めた。

2018年。一昨年の春、私は無理を押し切り海外に出た。しかしあの時出なければ今ころ帰ってこれていなかったか、行けず諦めるしかなかった。

どこかで元々この言葉に近い信念を持っていた。未来はだれもわからないし、だれも保証してくれない。だから自分がやりたいと思ったタイミングがベストタイミングなのだと。

友人からもらったこの言葉は、それを可視化したものだった。

みなさんには何かそういったものはお持ちでしょうか。

いつかやろうと思っていたもの。それはいつやるのだろうか。自分の中の優先順位を整理し、感覚に素直に。

それに向けて行動を始めるのは今なのかもしれない。

 

 

 

2020.06.25|スタイリスト

東南アジア編 第5話 カンボジア 「悲惨な歴史を知り、現代を考える」

ベトナムからほどなくして到着したカンボジア、プノンペン。

旅をしている人はアンコールワットの経由地であり、治安もあまりいい情報がないらしく長居する人は多くないという。

しかしこの治安という言葉一つで地域を覆うにはあまりにも頼りない。あくまで人の言うこの治安は私感の集大成でしかない。

プノンペンに降り立つと、普段では目にすることのないほどの警官んたちがマシンガンを携え警戒態勢で警備に当たっている。旅行でここに来たら治安が悪いと感じてしまうのもうなずける。なんせ我々日本人にマシンガンは見慣れない人を殺める道具でしかない。

だからと言って殺伐としているわけではなく、優しい人は心から優しかった。

 

私はカンボジアで、ここプノンペンとシュムリアップだけの予定だった。

シュムリアップといえばアンコールワット。しかしそれには全く興味がなかった。母が見たいという景色を見せるためにすぎなかった。

私はプノンペンにこそ目的があった。それは『トゥールスレン収容所』と『キリングフィールド』

聞いたことのない人の方が多いかもしれないが、ここは人間が一番残酷な生き物であると決定ずける場所のように感じた。

 

 

 

トゥールスレン収容所は元々学校の建物で、そこを収容所として作りかえられ、処刑と、拷問が繰り返された。

施設の写真もあるがあまりにも禍々しいので自粛したいと思う。

内容も気になる方は体調の良い時に調べてみてもらいたい。内容もあまりに酷いため細かくは書かないことにする。

 

カンボジアはカンボジア人同士が殺し合い、むごたらしい形で多くの命が奪われた国である。その歴史は1975年と、歴史というにはまだ近すぎる過去である。

そのことも世間に知れ渡ったのは、かなり時間が経ってからだった。

この大量虐殺の末、今現在カンボジアに行っても40歳以降の人は極端に少ない。

私はがここに来ることは10年近く前から決まっていた。

当時、中学生か高校生なりたての頃、たまたまテレビをつけたらキリングフィールドのことを放送していて、何気なく見ていたら内容が衝撃的すぎて目を離せなくなったことを今でも覚えている。

キリングフィールドのキリングツリーについての内容だった。

あまりのむごさに、当時かなり落ち込んだのを覚えている。

これを自分はどうしても実際に訪れなければいけない気がしていた。

 

実際訪れてみて、人間の残忍さと、理不尽をひしひしと感じ、拷問部屋では鳥肌が収まらなかった。

 

実際調べる人は覚悟してみてほしい。しかし、できれば多くの人に知ってほしいと思った。

 

その夜のこと、屋台でごはんを食べようとしたが注文の仕方がわからなかった私は、そばでごはんを食べていた、女性に声をかけた。すると彼女は一緒に食べようと言ってくれ、ごはんを注文してくれた。

 

そして、たくさん話をし、カンボジアを案内してくれることになった。

バイクの後ろにまたがり、市場や、ローカルなところを案内してくれた。その後彼女の友達のお店を借りて髪を切ってほしいと言ってくれ、お任せで自由に髪を切らせてくれた。

こういった出会いが、私に美容師は楽しい。美容師になってよかったと思わせてくれる。

 

彼女とお別れし、宿に帰ると日本人の彼が声をかけてくれた。

3つ歳の違う彼が話しかけてくれ、2日間かたりあかした。彼は、カンボジアで単身働きに来ていた。大学生とは思えないほど多くを経験しており、尊敬できる友人だ。

 

互いに出会ってから短い時間だったが、これから先も繋がりつずけるだろうと確信していた。

 

別れ際にくれた、今なかなか手に入らないお酒の味すらこれから先も忘れないと思う。

そしてあれから1年半。来週から一週間タイに行く私は、現地でその彼と再会する。。。

 

過去の話はほどほどに、未来のことを夜が明けるまで語り合いたい。

2020.01.15|スタイリスト

東南アジア編 第4話 ベトナム 「受け入れてしまうことがストレスを感じない秘訣」

ラオスから25時間弱。休憩があっても両替所もないので何も買えず。飲まず食わずでたどり着いたベトナム。

 

着いた途端、タクシーの客引きが群がる。はじめはみんな10倍以上の値段でふっかけてくる。

 

喉がカラカラで空腹も限界を超えて交渉する気力もわかない。そんななか良心的なタクシーを探し中心部へ行き宿探しをしなければいけない。そんな蒸し暑い初日だった。

 

お金をおろすも単位のでかいベトナムのドン。はじめはどの国も通貨の感覚になれるのが難しい。

 

宿を探してさまよう熱帯夜。

ラオスで世話になったスタッフが働くベトナムの宿を目指すが場所がわからない。

早くバックを下ろし冷えたコーラを一気飲みしたい。なんでもいいから食べたい。そんなことだけを考えフラフラさまよう。

 

すると一人の物売りの女の子が近寄ってきた。「どこに行きたいの?」

「この宿に行きたいんだけど。」

「そこなら知ってる!!あっちに行けばあるよ!!」

「ありがとう!!」そうやって立ち去ろうとした時、もっていたパンみたいなものを半ば無理やり食べさせてきた。

喉が渇いている自分にとっては拷問に近い。残りの水分を全て持っていく乾パンのようなものだった。

そして、飲み込むのに苦労していると、おもむろに袋に詰め、お金を要求してきた。

そしてお金をだすと、「これだよ!!」と手元からパッと大きな額を抜き取ったのだ。観光客ならこれで確実にだまされただろう。しかしそんなこともあろうかと抜き取られたお札を見逃さなかった。

 

「ふざけんな!!」本気で日本語が出た。

 

渋々返してもらったが、美味しくもないし一番必要としていない乾パンに1000円以上(ベトナムでは結構な額)を払わせられるところだった。

 

ほとんどは取り返したが、それでもかなり高い値段で売りつけられた。

状況も相まってイライラしていた自分は半ギレで教えてもらった道を歩む。

しかしいくら探しても見つからない。

まただまされた。その子はその場所など知らなかった。

予定より1時間も遅くたどり着いたその宿はすでに満室だった。

 

そんな1日から始まった。

ベトナムは暑い。自分がいた時は気温が48度にまで達していた。

日本の100倍近いバイクと2秒に1秒の頻度になるクラクションに少し疲れてきた。

 

そして移動のバスに乗る。するとバス会社の人はお客をお客と思わない。

平気で叩いてくる。何か質問しようもんならなぜか怒られる。

 

でもこの時には私はどこか受け入れていた。

 

叩かれようもんなら満面の笑みでありがとうと返した。

質問してキレられようもんならありがとうと返した。

無視されても笑顔で相手が答えるまで見つめ続けた。

 

そんなおかしな状況に不思議と面白くなってくる。

 

悪い印象ばかり書いてしまったが、ベトナムにもとても心優しい人はいた。タムコックという田舎の宿で、働いていた少女は常に笑顔で気遣ってくれた。

 

観光客が入らない家族経営のフォーのお店の人たちは必死に伝えようとしてくれた。そしてそこのフォーは、行列になっているお店より遥かに美味かった。

 

 

出会いにあまり恵まれなかったにしてもその国を悪く言うのはちがう。あくまで国とひとはバラバラ

で考えるべきもの。

おかしな人もいれば心優しい人もいる。それは世界共通だろう。

そしてある程度のことは受け入れてしまえば嫌な気を起こすこともない。すべては日本人の感覚を持った私とそうでない人たちとの感覚の相違ににすぎないことなのだから。

2019.07.31|スタイリスト

東南アジア編 第3話 ラオス「大きく目の細かい虫網でありたい」(アカイザワ)

タイから60時間以上かけメコン川を船で降りラオスを目指した。

なかなか選択しないルートだったため日本人に会うとは思っていなかったがここでも私は素敵な出会いに恵まれた。

ボロく小さく椅子の硬い船に乗り込む。エンジン音が不快なほど鼓膜を揺らす。

やることがない。うるさい。ご飯もない。ケツ痛い。でもただ船に乗って大して変わらない景色をたのしむのもまたよかった。

 

しばらくボーとしていると一人の人が声をかけてきた。

 

彼は僕の26歳上のおじさんだった。彼のことを今は『むぎっち』と呼んでいる。帰国してからも連絡を取り合う友人だ。

 

彼は仕事を早期退職しはじめて一人旅にでたとのことだった。

そこからはたくさん話をした。くだらないことも深いことも何でもかんでも話した。

 

旅で出会う人たちはなんでも自然体で話すことができる。これは不思議で、旅ではなく旅行をしている人とは腹を割った話はなかなかできなかったりする。

 

まだまだ旅を語る資格はないが、脱力し、ニュートラルな人ほど旅を感じさせてくれる。

 

むぎっちとビールを飲みながら退屈な時間を過ごす。そしてようやくラオスに着いた。

 

着いてみたらなんとここも何もないもないがある地だった。

 

20代の私にはわからなかったが、むぎっちがいうにはとても懐かしさを感じさせてくれる心地のいい場所だという。どこか昭和真っ只中の空気に似ていたらしい。

少しバスで移動するととても綺麗な泳げる泉があり泳いだりしたが、やはりこういったところには観光客が多くどこか綺麗だが合わなかった。だがここは間違いなく綺麗だった。

 

結果着いて1日目だけあたりを見て回りその日以降は基本的に朝からむぎっちとウイスキーを飲み、昼からビールを飲み夜もそれらを飲んでいた。

 

話せば話すほど本質に近ずいていく。

お互いの価値感を投げ合う時間が非常に好きだ。

むぎっちは私よりもはるかに歳上なのになぜか敬語で私の価値観を引き出していく。そして吸収していった。

一緒にいてそこが彼のとても素敵なところだと感じた。

 

ある日彼をみて私はふと虫網を思い浮かべた。

 

小さい頃は小さくも目の細かい虫網でいろんな経験や感性を拾い上げっていた。

成長するにつれ行動範囲も広がり虫網の口も広くなっていく、しかしそれと同時に、網目も広がりこぼれ落ちていくものが出てくる。

 

さらに歳を重ねると大きくなりきった網は網目だけ大きくしていく。

 

こんなことをイメージしていた。

この人は網も大きければ目も細かいなと。自分も歳を重ねても、大きく目の細かい虫網を持ちたいと思った。

 

年齢は数字にしか過ぎない。大切なのはどんな経験をしどのように考え行動するか。

年齢が上なら経験値が上なのか。それは一概に言えなくて若くても人が経験していないことを多く経験している人もいる。

『経験』自体、人それぞれの視点、考え、環境、タイミングetcからなるものだから上か下かあるはずがない。要は種類が違いすぎるので比べられるものではないのだと思う。

 

確かに私は人があまり経験していないことをしたかもしれないが、それは全くもって人に上から語れる経験ではない。価値観の話をするとき、内容をより深くするツールにすぎない。

歳『下』という言葉にも違和感を覚えるが、私はひとりの人間として『自分が経験したことのない経験をしている人』から感性のいいとこ取りをできたらいいなと思っている。

つまり自分以外の人間すべてからだ。

旅で出会った人と深く話し感じた。

いろんなものに触れ感性を刺激しつづけている人間は、面白く、深い。

こんな内容を書いてる自分を客観視して「何を偉そうに価値観語ってんだよ」と心の中で自分を鼻で笑っている自分もまた一興だと感じている。

2019.07.10|スタイリスト

東南アジア編 第2話 タイ 「お金の価値、出来事の価値」

 

マレーシアから陸路ではなく、飛行機を使って入国したタイ。それには理由があった。マレーシアとタイとの国境は治安が安定しておらず、絶えずテロに巻き込まれる可能性があったからだ。

避けた私はそこの実情を一切知ることはできなかった。もしかしたらとても素敵な場所だったかもしれない。しかし自ら命の危険に足を向けることはできなかった。

 

皆さんの中でタイとはどのようなイメージだろうか。

私は、恥ずかしながら、まだ道路も舗装が遅れており、衛生的にもまだまだで、たくさんの難民がいるイメージだった。

結論から言うと、バンコクに関しては東京とさほど変わりなく感じる程だった。日本の居酒屋やチェーン店がいたるところにあり場所によっては、50mの範囲の中に4軒セブンイレブンがある。

 

物価も上がってきており、それでもなお発展途上であるこの国が日本を超えるのはそう遠くない未来だと感じた。

 

この国ではとても多くの出会いに恵まれた。

バンコクで2週間ほど滞在していた宿では多くのともだちが出来た。私が美容師であることを聞きつけた人たちが髪を切ってくれとおしかけ1日で7人切った日もあった。

 

 

 

 

 

 

その中の一人だったアーリーというドイツ人の彼女とルートが一緒だったので一緒に旅をすることになった。

バンコクからチェンマイまで、寝台列車で長い時間をかけて向かった。

列車の窓を開け湿度を多く含む空気を感じながら、ワクワクを募らせた。

 

寝台列車というのはとても不思議だ。決して快適ではない。ゆっくり寝れるわけでもない。だが窓の外を眺めているだけで、旅を感じることができる。「旅」を簡単に味あわせてくれる。

少し汚い線路上、走り回るネズミ、暑くて寝苦しい車内、だけどそれすらも刺激的で輝いて見えた。

 

車内で仲良くなった警察官たちが気さくに声をかけてくれてご飯を食べさせてくれたりもした。タイ人はとても気さくで優しい人たちが多く、大好きな国になっていった。

チェンマイでは、毎日好きな時間に起きては、近くの屋台でマンゴーシェイクを飲み1日が始まり、お昼ご飯を食べたら昼寝をして、起きたら屋台で夕飯を食べて、ビールを飲んで寝る。そんな毎日を過ごしていた。

唯一したことといえば釣りだけだ。

1週間くらいチェンマイには滞在したがほとんど観光した記憶がない。

この釣り堀に行くときにgrabという個人タクシーを利用したときのこと。表記されていた住所のところが潰れていて路頭に迷っていたところ、ドライバー施設に電話をかけたり、車もメーターを止めて送ってくれたり、最終的には一緒に釣り場まで来てくれて写真を撮ったり、ビールを奢ってくれて一緒に飲んだりした。

 

どこか気が抜けていて微笑みどころか満面の笑みをくれる国だった。

 

どこの国にもいるが路上で生活している人たち。もちろんタイにもいる。タイは急激に発展したからか、その貧富の差が斗出しているように感じた。

 

脚のないご老人や、痩せた体で子供にミルクをあげている人、精気が全く感じられない人もいる。

はじめは、お金を渡していたらきりがないと思って渡さなかった。だが、横を通り過ぎた後必ず後悔が後ろ髪を引く。

だから渡さないことで後悔することをやめようとおもった。

その行為を偽善かどうかではなく、それをすることで周りから偽善者だと横目でみられることを気にしている人が多いのではないかと感じたからだ。

あまりそういった人の目を気にしない私は、渡すときに必ずその人と同じ目線まで下ろし、前の籠や皿ではなく手渡しをするようにした。同じ目線で何かを共有したかった。人には上下はない。私がお金を渡しても私の立場が上になることはない。そうして受け取ってくれた人たちは皆さんがとても素敵な笑顔を私にくれた。私はその笑顔にとても元気ずけられた。それにありがとうを言いたくなった。

自分もお金があるわけではなかった。でもだからこそこの考えも生まれた。

 

お金には、世間から見ると1つの価値しかないが、人一人からするとお金の価値は各々違うと。

 

自分にとってはタダお腹減ったときにその小腹を満たすための300円でも、誰かにとっては、1日家族を食べさせていけるかの300円になる。

 

これを感じたとき、自分の中にはお金がより価値を見出せる人の手元にあったほうがいいなと思うようになったのだ。

 

お金の価値観を変えてくれた地だった。

 

話を戻すが、その後私はパーイという田舎の町に向かった。

何もないがある町だ。もともとタダのバスの休憩地点だったこの町を気に入った旅人たちが移り住み町らしくなった。

 

ここで私は素敵な出来事に出会う。

バイクで事故を起こし膝を縫うことになったのだ。しかしこの出来事に今でも感謝している。

 

この町にアーリーと共に着いてすぐ。私は町の真ん中で、バンコクの宿で髪を切ったジュリーというパリ出身の子とばったり再会した。

 

この子はバンコクで会ったときからとても笑顔と心遣いが素敵でまた会いたいと思っていた子だったのでこのときとても嬉かったのを覚えている。

その後彼女がバイクをレンタルしてこの町の周辺を周るから行こうと誘ってくれたのでバイクをレンタルし一緒に景色を見て周った。その帰り。少し路面の濡れた坂道で私のバイクはコントロールを失い転倒してしまった。

 

うまく受け身を取れて、全く怪我なく着地できていたと思っていたが、何と無く違和感を感じ破けてもいないズボンを膝までめくると膝が少し裂けてしまっていた。

 

自分はさほど慌ててはいなかったがジュリーが病院に行かなきゃ!!と心配そうにしてくれていた。

そのときもう二人、一緒に周っていた人がいたが、時間を奪いたくなかったので帰ってもらい、一人で病院に行こうと思ったが、ジュリーが心配そうに施述室まで付き添ってくれた。

 

縫う前にする麻酔注射。あれがなかなか痛い。ジュリーは心配そうに傷口を見て僕の手を握っていた。意識すると痛いからと、家族の話や旅のことを話して意識をそらそうとしてくれていた。

 

このとき私は傷のことなんかより、「なんて心が綺麗で優しい子なんだ。どうやって育てられたらこんな素敵な子になるんだろう。この子の家族に会いたい。」そんなことを考えていた。

 

施術が終わり診断種などに問題がないか目を通してくれ、宿まで送ってくれた。次の日はみんなでご飯を食べた。

バンコクで髪を切ったときに、ジュリーは「パリに来たら泊めるから是非来て」と言ってくれていたが、この日私は改めて、「パリに行ったら是非家族に会わせてくれ。」とお願いをした。

 

そして、この4ヶ月後パリで私は彼女の家族と最高の時間を過ごしたのだ。この話はまたパリ編で。

 

これによって私にとってこの事故は価値のある素敵な出来事になったのだ。

 

 

その後数日歩けなかった私はまたアーリーや新しい仲間とのんびり過ごし、またチェンマイに戻りそこでアーリーとはお別れし次はドイツのハンブルクで会う約束をした。

 

そしてまだ完全ではない足で60数時間かけてメコン川を船で降りラオスをめざしたのだった。

 

 

 

2019.07.04|スタイリスト

赤井澤 剛

スタイリスト
仙台市生まれ。山、風景写真、キャンプ、自転車、温泉巡り、雑誌集め、読書、行ったことないところ巡り、動物
このスタッフについてくわしく
空席を確認 WEB予約する
TOPへ戻る
空席確認・WEB予約